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2010年7月 8日 (木)

霍去病・衛青・李広

 衛青ってのは、先日ツイッターでつぶやいた人の名です。
 N様、漢字が一杯の中国史ネタでゴメンね。

 古代中国の歴史の中で、気になる人はたくさんいるのですが、前漢に活躍した霍去病と衛青という名は妙に心に引っかかっています。
 その名と、今回李広という名を教えてくれた塚本靑史さんに乾杯。(,⌒-⌒) σ□
 ちゃんとした資料じゃないけど、ちょっとメモ代わりにまとめておきます。

 衛青(えい・せい ?-BC106)
 武帝の寵姫から皇后になった衛子夫(えい・しふ)の弟。
 父親不詳。母親は奴婢であった衛媼(えい・おん)。幼少期は放牧生活を送り、奴婢として扱われた。
 皇太子の妾となって出世を遂げた姉と共に都に来てのちも、奴婢の時代を忘れず常に腰を低くし、礼儀正しくふるまっていたという。
 匈奴の生活を見て育った事で、武帝の対匈奴戦争に際して新しい騎馬戦法を編み出して功績を上げ、並みいる武官たちを飛び越えて大将軍となったが、あくまで謙虚な人柄のままであった。
 かつての上官が部下になってもこれに敬意を払い、部下や甥の霍去病をかわいがり、霍去病の活躍に人気を取られても快くこれを応援したという。
 しかしそれ故に、人に軽く扱われることともなったらしい。かつて奴婢として使われていた武帝の姉である平陽公主を妻としたが、夫婦生活がどうであったかは記録なし。

 霍去病(かく・きょへい BC140-BC117)
 武帝の寵姫のち皇后の衛子夫の姉、衛少児(えい・しょうに)の子であり、衛青の甥。
 父親は霍という姓以外は詳しい記録がない。母親が去病と共に小役人である陳掌(ちん・しょう)に嫁いだのちも、姓を陳に改めることを許されなかったという。
 幼少時より騎射に優れ、また軍才、軍略に長じており、武帝の庇護と大将軍衛青の身内として自由闊達に育つ。武帝の匈奴強攻策のなかで頭角を現し、若くして驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の官職を得る。
 性格は人を人とも思わない傲慢さが目だち傍若無人、短気で直情型、天才肌。
 目上、同輩には敬遠されたが武帝に愛され、また兵たちにも奇妙に慕われたといわれるが、24歳の若さで死亡。
 死因は病死とされるが、恨みによる暗殺説もある。

 李広(り・こう BC190?-BS119)
 前漢の文帝・景帝・武帝に仕えた武将。秦の名将・李信の子孫。
 若い頃、皇帝の狩猟のとき、文帝の前で羆(ひぐま)に槍を着け、最後は殴り殺す剛勇を示し、高祖(前漢の祖・劉邦)の時代であったら列侯にでもなれたものを、と言わしめた。
 匈奴との防衛戦に際し最前線の指揮を執り、弓の名手として蛮族に「飛将軍」と恐れられた。堕落しがちな武官・文官たちの中で、真面目な性格と武勇に優れた人となりが知られる。しかし同時に杓子定規を嫌う臨機応変な考え方の人で、上下の信頼も篤かった。残念ながら不運が重なって赫々たる功績は上げられず、悲運の名将として知られる。
 のちに新戦法で台頭してきた若い将帥、衛青、霍去病らや、対匈奴強攻策に転換した武帝の戦略のために時代に取り残された。
 武帝に嫌われたのではなかったが、老いたこともあり第一線に呼ばれることはなかった。
 しかし無理に従軍を望み、衛青の部下として出陣したが砂漠の中で道に迷って決戦に遅れる。これを恥じた李広は、自分の運命を悟ってそのまま自刎した。その死を聞いて、配下の将兵も民衆も、多くの人々が歎いたという。

 この三人ですが、最初の二人は銀英伝のジークフリード・キルヒアイス(衛青)とラインハルト・フォン・ローエングラム(霍去病)の人格の一部じゃないか、と思っています。
 では三人目の李広は誰かな。
 アレクサンドル・ビュコックというよりウィリバルト・フォン・メルカッツでしょうね、やっぱり。

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投稿: Rogeremeli | 2021年6月 5日 (土) 14時18分

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