英語が、選択学科だったの?
老母を買い物に連れ出して、いや正確にはいつものように呼び出されて、アッシー君をして買い物にいったとき、デパートのコーヒーショップで一息。
そのとき、面白い事を言いました。
まぁ、話は外でコーヒーを飲むのは久しぶりだ、という話から始めてコーヒーを飲んだ記憶の話になり、それから、その頃の話。
昭和18年か19年くらい、だそうな。
そのころの女学校で、英語が選択科目だったんだそうな。
4年だったか5年になったとき、勤労奉仕で軍需工場へ行くために授業時間が短縮されていくつか授業が改編され、英語を選ぶか家政科を選ぶか選択することになったんだと。
母は「楽そうだったから」英語を選択したそうな。
え? と驚いた。
まず一つは、家政科と英語が同じウェートってこと。これは驚いたと言うよりおかしかった。家政科という名であったかどうかさだかでないが、ともかくそんな科目だったそうな。
もう一つは、戦争中期を過ぎてそろそろきつくなっていた情勢の中で、高女とはいえ女生徒に英語を教える学校があったと言うこと。英語が敵性語として排除されたとされたのは、その頃じゃなかったかな。
ま、学校によって多少の違いはあったらしいし、母の行っていた学校はたまたまそういう方針だったらしい。これを持って、当時の教育はこうだったんだよ、とはいえないとのこと。
リベラルな校風、と言っていいかどうかは知らないが、陸海軍の将官の娘などがかなりいた学校で、配属将校などへでもないところだったのだそうな。
ちなみに、野球用語がストライクがよしとなったとかいう点については、母はそもそも野球なんて一部の人しか見なかったし、野球のラジオ中継なんてめったにないのだから、そんな話は知らない、とけんもほろろ。
野球は国民スポーツだと信じていた人には失礼ですが、興味がない人にとってはこんなものですよ。
英語は敵性語として一切排除されていたかと聞くと、そんな馬鹿なと一笑。
排除したら、軍需産業が成り立たないでしょ、と。母方の伯父は陸軍技術士官で海外の本が常にいっぱいあったし、母自身も軍需産業では海軍技術廠(空技廠ではないらしい)で働いていた時、英語の本はたくさんあったし英語の言葉で指示を受けることもあったそうだし。
ま、歴史ってそんなものです。
何が起点で道を外れてしまうかわからないし、正確な歴史をいくら伝えようとしても必ず歪んでしまう。
気に入った歴史の事象だけを捉えて、昔はこうであったんだよ、と語り継ぐと、あとで恐ろしいことになりかねない。
そんなことを思いつつ、へらへらとアッシー君をしていました。
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コメント
☆茶坊主センセ ( T茶T)\(^-^ )
だからあのとき世界征服して、全部日本語にしてしまえば...
投稿: 鐵太郎 | 2010年9月 6日 (月) 12時01分
【大井川】茶T)
あんなものがあるから人々は苦しむのです。
英語は決して敵国の言語ではありません。存在自体が敵なんです!
投稿: 病茶 | 2010年9月 6日 (月) 08時46分