« イカロス君データ・2010/11/2 | トップページ | 先週買った本(10/10/31~10/11/6) »

2010年11月 6日 (土)

「ポンパドゥール侯爵夫人」人物ネタ。その1

 「ポンパドゥール侯爵夫人」(ナンシー・ミットフォード)に付いて書こうと思ったら、面白いネタがいろいろあって書ききれない。
 整理できたネタから上げてみようかな。
 まずは、有名なルイ15世暗殺事件。
 

 7年戦争が始まった1756年、メノルカ島を奪取したことで勝利で戦争を始めたフランスですが、国王ルイ15世に対する不満は徐々に高まっていました。これに対する対抗策として、12月13日、国王はパリに赴いて教皇回勅の受諾、そして国民の国王に対する服従を高等法院に登記させます。国王がパリに現れれば無条件に歓呼の声で迎えられたものですが、今回は町を馬車で走らせても、「国王万歳」の声は一度も聞かれなかったという。

 翌1757年1月、宮廷は寒さを避けてヴェルサイユよりまだましなトリアノン宮に移りましたが、ヴィクトワール王女だけはインフルエンザにかかっていたのでヴェルサイユに留まりました。国王は5日、彼女を見舞に行き、午後6時にそこを離れます。
 王太子、リシュリュー公爵とアヤン公爵、それに二人の侍従を従えて階段を下りてきた国王に対し、衛兵をかき分けて一人の男が近づいてぶつかり、そのまま群衆の方へ歩き去りました。
 数歩後にいたリシュリューだけがこれを全て見ており、「あいつだ、あの帽子をかぶっている男だ」と叫びます。
 胸に手を当てて血に濡れていることに気づいた国王は、始めてナイフで刺されたことを知ったという。
 「傷を負わされたぞ。あの男を逮捕せよ。ただし、傷をつけてはならぬ」
 国王はそのまま元の自分の寝室に自分で歩いて行きましたが、出血多量のせいで意識が遠くなります。困ったことに医師がいない。もしもの場合に備えての告解師もいない。周囲は一時パニックになります。
 ようやくトリアノン宮から外科医のラ・マルティニエールが呼ばれて診断し、出血は多いが生死に関わる傷ではないと診断を受けて一安心。
 ただしナイフに毒が塗られていなければ、と医師のひと言。

 駆けつけた内親王たちは、血まみれで横たわる父王の姿にそろって卒倒します。王妃も来て、同じく卒倒。王太子は泣きながらそれでも気丈に指示を出す。

 これを聞いた国民は教会に殺到し、国王の無事を祈ったという。国王と国民の間にさまざまなきしみはありましたが、ルイ15世は依然として国民に愛される最愛王(ビヤン・エメ Bien-Aimé)だったのでした。
 

 
 
 国王にナイフを向けたのはこの男。
 ロベール=フランソワ・ダミアン(Robert-François Damiens 1715/1/9-1757/3/27)
ロベール=フランソワ・ダミアン(Robert-François Damiens 1715/1/9-1757/3/27) 
 彼は国王の優渥な言葉にもかかわらず、拷問を受けたのちに、王族5人、大貴族20人、そして高等法院大審部のメンバーからなる60人の司法官によって裁かれた結果、国王殺害未遂の罪状で有罪とされます。
 彼は拷問の上で、最も重い刑罰である八つ裂きの刑で処刑されました。

 国王はダミアンの名を知ってもその名を口にせず、「余を殺そうとしたあのムッシュー」とだけしか呼ばなかったとか。また、このダミアンに関して寛容にも全ての罪を許すと宣言していたのですが、高等法院が処刑を決定するとそれを翻すことはできなかったのでした。

 当時、フランス国王は近づくのが容易な存在で、その気になればいつでも暗殺者は王に接近することができたそうです。その状態を変えたいとは思われなかったため、暗殺者の方を残虐に処刑して見せしめにする必要があったのだそうな。
 当時の記録を見る限り、この残虐な処刑に対して回顧録の中ででも疑問を残したのは、デュフォール・ド・シュヴェルニーだけのようで、それも王が命を取り留めたからそう書いたに過ぎないそうな。

 このダミアンは、死んだのちも汚名にまみれ、親族もその影響をこうむりました。処刑後、ダミアンの家は完全に破壊され更地になり、兄弟と姉妹は改名を強要され、父と妻と娘はフランスから追放されたのだそうな。

 国王はこれを少しでも慰藉するために、ダミアンの故郷フランス北部アルトア州の名を取り、その年に生まれた皇太子の次男の称号をアルトア伯アルトア伯シャルル・フィリップ(Charles-Philippe Charles X 1757/10/9-1836/11/6)(comte d’Artois)としたそうな。
 それがのちにフランス国王シャルル10世となったアルトア伯シャルル・フィリップ(Charles-Philippe Charles X 1757/10/9-1836/11/6)。
 右は、若い頃の肖像画。→

 この人については、日本版Wikiで王妃アントワネットの寵臣になった、などとふざけたことを書いてありますが、宮廷の中で二人が気があったのは事実としても、男女の関係もないし、地位としては王妃と王弟はそんなに違わない。臣下になれるはずもない。
 「寵臣」の意味がわかっていませんね。

 デュマの「王妃の首飾り」の中で語られるアルトア伯の姿がちょっと気に入っていますが、実像としては反動的な放蕩人で政治センスはゼロと言っていい人だったそうですね。

|
|

« イカロス君データ・2010/11/2 | トップページ | 先週買った本(10/10/31~10/11/6) »

△愛書家」カテゴリの記事

歴史マニア」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/3913/37556908

この記事へのトラックバック一覧です: 「ポンパドゥール侯爵夫人」人物ネタ。その1:

« イカロス君データ・2010/11/2 | トップページ | 先週買った本(10/10/31~10/11/6) »