なるほど、こんなものがあったんだ。
・・・というもの、二点。
会津のね、幕末の歴史というと、白虎隊ってものが有名です。
薩長の新政府軍によって賊軍とされた会津松平藩の戦いはここでは有名です。その中で特に有名なものは、実戦部隊としては若すぎる少年たちを補助部隊とした白虎隊です。
負けた側なので、会津はなんにしても旧弊で昔ながらの戦い方しかできない愚かな軍隊と考える人もいるようですが、会津藩の軍制はは、国民皆兵に近いあの時代としては画期的な近代的な総動員体制といっていい。
その中で子供たちで構成された白虎隊は、軍装が多少劣っていたことは事実だそうですけどね。
少ない兵をそれぞれ街道の要所に配備して防衛戦を行って敵の疲弊を誘う、という会津藩の作戦は、物量にまさる新政府軍の大規模な迂回作戦によって破られます。
このへんの展開は太平洋戦争に似ていますね。モノとカネがある方は数に任せて平押しするのではなく、大規模な迂回作戦を行う自由度を持っているものです。この戦訓を行かせなかった旧日本軍は、、 ・・・いや、これは別な話だわな。(笑)
迂回され、あわてて会津に戻って飯盛山という会津盆地の東の山に疲れ切って到着した少年たち20名は、燃える城下町を見て絶望して自刃したといいます。その一人が死にそびれ、晩年になってようやく当時の事情を語ったそうです。
地元では、悲劇としていつまでも語られています。
さてこの記念館の施設に、こんなものがありました。
昭和3年(1928年)にイタリアから送られたモノだそうです。
台座の右に、こんな看板が。
そして台座には、こんな文字があります。
なんとSPQRですぜ、奥さん!(なにが奥さんだw) SPQRってのは、「ローマ元老院及びローマ市民」ってぇ意味で、ローマ共和国、ローマ帝国の時代に使われた言葉。
まぁ現代でもローマ市とかローマ市民という意味で使う言葉ですから、とりたてて騒ぐほどでもないんですが、この贈り主が当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったベニト・ムッソリーニだったとなると、話はとうもキナ臭い方向にむいてしまうようです。
戦後にこれは、一度GHQによって破壊されたそうですが、なんとか一部を復旧してここに飾られているんだそうな。昔はペアの塔だったのかな?
そのうち調べてみましょうか。(ヒマとやる気があったらねw)
さてもうひとつ、ここには面白いモノがあります。
こんな建物。
「さざえ堂」といいます。上がっていくと途中でくだりになるんですが、上がりとくだりが交差しない面白い構造なんですよ。
正面はこんな感じ。
中は、階段ではなくスロープ構造なんですね。これもユニークですね。

構造は、まァこんな昔の新聞の絵でわかりますか?
ここでダビンチの名を持ち出さなくても、って気はしますが。(笑)
前にここに来たのは、もう何十年も前でしたっけ。
こんなに小さかったのかと、ちょっとびっくり。
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