京都と山口と会津と、その他いろいろ
明治37年(1904年)、母方の祖母が生まれました。3月半ば生まれですから、広瀬中佐が旅順港沖で戦死するちょっと前。日露戦争のまっただ中。
祖父・鐵太郎は代々の江戸っ子でしたが、祖母は二代前は京都北面の武士、御一新で東京市に「下って」きたけれど、京風の家だったらしい。
時代劇が好きだった父がほとんどテレビに関心を持たなくなって以来、母はもともとTVドラマが好きではなかったこともあって、ドキュメンタリーとかニュースは好きだけど時代劇はまず見ません。
今年の大河、けっこう面白いよ、と話したら、あまり見ていないけど、それじゃ今度おりがあったらね、と、いかにも山の手育ちふうの、「やだよ、でも気がむいたら見るかも」(大意w)と言う答でした。
あは。
何でそんな話になったかというと、買い物に連れ出して、前を山口ナンバーの車が走っていたから。京都の上級貴族が何を考えていたのかはともかく、祖母の家あたりでは、昔から長州に対しいい印象はなかったのだそうな。
かつては、鳥羽伏見のときの日記とか記録とかがいろいろあったのだそうです。1945年3月に、カーチス・ルメイに家といっしょに燃やされちゃったんだけどさ。
そこで、今年の大河 「八重の桜」の話になったという訳。
やっと、会津と京都と山口が繋がったでしょ? 一応、筋の通った話をしようと努力はしてるんですぜ、これでもさ。(爆)
少なくとも明治の皇居の一部の空気としては、薩長政府を心やすく思わない人たちもいたらしいですね。それは、藩閥政府に出世を押さえられたから、などという下世話な発想じゃない。公家の家に仕えていれば、大臣将軍博士にならずとも高い志を持って生きていけたんだから。
それは、会津とか、そういった心ならずというか、運命のなせる業で悪い境遇に落とされて苦しんだ人々への、中立的な、透明な同情心だったのだろうか。
どうなんだろう。
司馬遼太郎が、20世紀初頭のヨーロッパの人々がポーランドに抱く思いを、「透明な同情心」と呼びました。どの本に書いてあったか忘れたけど、多分「坂の上の雲」だろう。
祖母が生きていたら、そんな気持ちで今年の大河を見たのだろうか。
写真は、鐵太郎スケッチ帳から。
甘いものが好きだった祖父が、麻布十番の菓子屋で食べたものらしい。
水彩画のスケッチです。クリックすると、ちょっと大きくなるはず。
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